ビンテージアロハの絵師

筆者渾身の力作です。

アロハシャツというカジュアルウエアがハワイで誕生したのは、トップページに記載しているように1930年代の初頭、ちょうど世界恐慌のおりでした。やがて中国大陸、ヨーロッパに硝煙の香りが漂い、帝国海軍の航空奇襲によって、米国太平洋艦隊の根拠地であった真珠湾は炎に包まれました。
戦争は究極の破壊行為であると共に、経済に対して大きな活を入れる効果をも持ち合わせています。艦船や航空機など、直接的な攻撃能力を有するものに対象を絞った日本軍の作戦は、あくまでも短期決戦・早期講和を前提とした奇策であったため、世界で唯一資源を自給自足できる米国の、人材・物資を集積した驚異的な修復の前には一時的な軍事優勢状況をもたらしただけに終わりました。
軍人はもとより、軍需産業・輸送・建設分野において多くの民間人が真珠湾に集結し、破壊された施設群は軍事機能の強化はもちろん、最新鋭の通信・補修・医療・輸送・手段を備えた兵站拠点に生まれ変わりました。二発の原子爆弾と不可侵条約を覆したソビエトの参戦。ポツダム宣言の受諾によって、日本の軍事力は解体され、ようやく太平洋を血で染めた太平洋戦争は終結。この間に多くの日系人が米国内の収容所に監禁されていたことは、「米国日本人会HP」をごらんいただく以前に先刻ご承知でしょうが、米国で生を受けた「米国籍を有する日系人二世」は、言われなき人種差別に対抗し、愛国心を表明するための最後の手段として、志願兵として従軍。主に欧州戦線にまわされた二世部隊ですが、ドイツ降伏後には太平洋戦線に投入され、日米二カ国語に堪能なことから、戦後の日本では通訳として大活躍。多くの米兵が日本に駐留する「オキュパイド・ジャパン」時代です。

二世部隊をのぞいた多くの米兵にとって、日本は驚異の国でした。
それまでさんざ「黄色い猿」だとか「卑怯者」と蔑み嘲ってきた日本人が、繊細で優美な文化を持っていたことに仰天。まぁアメリカは、この時点で建国200年にも満たない新興国家。文化的には未熟な若造ですね。
ネイティブアメリカンにとってみれば「どこがやねん」と言うべき「新大陸」に、欧州を追い出された(見切りをつけた)人たちが押し寄せ、居直り強盗よろしく住み着いて以来、ずっとひたすら移民を受け入れ続けてきた国ですから、観光旅行やビジネスで海外に出向く一部の例外をのぞき、一時的にせよ多くの若人が他国に駐留することなど前代未聞の出来事。「おらとこが世界一だっぺ」と思いこんでいた田舎者にしてみりゃ、蔑んでいたはずの敵国国民が、自分より遙かに高度な文化を持っていたわけですから、集団カルチャーショックも無理有りません。で、この時期に多くの美術品と共に、膨大な着物が太平洋の彼方に運ばれたわけ。もちろんジェット輸送機が登場する以前のこと、荷物の運搬はもっぱら輸送船。グァム・サイパンを経て真珠湾から西海岸へ、そしてここから西側世界へと、日本の文化は広められてゆくことになります。

開戦初頭の日本軍による欧米勢力駆逐は、敗戦後のアジアにおける民族独立運動に結実し、歩調を合わせて共産勢力も蔓延。ソビエト・中国を後ろ盾とする北朝鮮と、米国を軍事オブザーバーとする大韓民国が最前線となり、兵站拠点として日本や統治下にあった沖縄が使われ、その後方基地として真珠湾も大きな意味を持つようになったわけですが、この点でも日本は恵まれていましたね。空襲で焼け野原と化した日本にとって、この朝鮮戦争は復興の、恰好の足がかりとなり、なかでも戦火に見舞われなかった京都は、いち早く各種の産業が復活。和装産業を含む繊維産業が未曾有の好景気に沸きました。
同時に日本に文化をもたらした朝鮮半島が、東西両陣営の激突最前線。おまけに東洋文化の元祖・中国大陸は「竹のカーテン」ですから、東洋文化の本家の座に、日本がちゃっかり居座ることができたのも、一言「僥倖」と言えるでしょう。

第二次世界大戦を挟んで、アロハシャツ製造はハワイの土産物産業として確立されてゆくわけですが、その背景にも日本人が絡んでいます。日本人を含め、東洋人は手先が器用。「三刀」と言って、刃物を扱う散髪屋・調理人と並んで、仕立て屋(テーラー)は、移民社会ではポピュラーな職業。収容所から解放された日系一世と兵役から帰ってきた日系二世の多くが、親子手を組み仕立屋さんを始めたわけ。もちろん戦前から手がけていた所もありますが、いわばエラリー・チュン氏のライバル達があちこちに乱立。氏が「アロハシャツ」を商標登録した背景には、こういった事情も隠されていたのでしょう。

親世代の着物に関する知識と、子世代が「本場」日本から持ち帰った着物がブレンドされ、多くの着物アロハが生まれますが、それでもアロハの主流は米国の画家によって描かれたトロピカルなプリントもの。着物地では歩留まりが悪く、売り切れたら追加生産ができない。(どっかのサイトで販売しているアロハみたいですね…苦笑)
当時の円ドルレートは1ドル=360円。ドルの値打ちは現在の3倍以上。「舶来物」は高級品で、「日本製」は粗悪品の代名詞。観光客や停泊寄港中の艦船から下りてきた船員・兵隊相手のおみやげ物だったアロハは、原価を切りつめる必要に迫られ、白羽の矢はここでも日本に。1950年代に入ると、紡績メーカーや繊維商社が、せっせとハワイにプリント生地の輸出を始めました。だって、外貨獲得が国是の時代。和柄アロハ用には、その派手さから布団の表地が多く輸出されたようですね。
「アロハはレーヨンじゃなきゃ」も、このころの繊維事情から生まれたもの。綿では光沢が出ない。シルクは高いし、シミもできやすくケアが大変。当時のポリエステルは丈夫だけど発色が悪い。光沢があってケアが楽で、何より「大量に出回っていて」「安かった」のがレーヨン。身体にまとわりついて蒸れますけど、「どうせお土産もんだからねぇ」と、割り切って採用された様子。 この当時、せっせとアロハ用の生地を輸出していた商社の中には、カネボウあたりも含まれています。今でこそ「カネボウ=化粧品」のイメージが定着していますが、このころは立派な紡績メーカー・繊維商社でして、うろ覚えですが、鐘淵紡績を略してカネボウと呼ぶようになったとか。

「ハワイでプリント生地のニーズが高まっています」テレックス(死語)の打ち出した英文読みゃ、先方のニーズぐらい掴めますわな。「なら一丁染めてみっかぁ」となって、「元絵どうしやしょ」と来て、「京都の絵師に頼もう」と相成ったのは、真っ当な流れ。戦災に会わなかっただけに、京都にゃ日本画家の重鎮やらお偉い方がご健在。「日本画の先生が描きおこしました」は、洋の東西を問わず大きなセールスポイントになりますからね。着物マニアの世界で「京都に染めに出しましたのよぉ、おほほのほ」と一緒。
でもね、「何でわしが外人さんの土産物描かなあかんのや?」となりますねん。なまじっかお偉いさんだけに、プライドがある。仕事もある。物資欠乏後の狂乱インフレ右肩上がりっぱなし経済下では、着物がアホほど売れました。だって着るもの無いんだもの。「世間並み」を目指して、ひたすら前進し続けた時代ですね。次から次から闇市奥様やらの誂え仕事に、「これ一着で年中いける」四季花の留袖なんぞ、ひっきりなしに仕事が来るわけですね。それでも「せんせ、つまらん物ですが…」と、ジョニ黒にケント…商社だけに舶来物を手みやげに日参されれば、先生ご本人も断るに断れません。
「わし自ら描きおこすのもやぶさかではないが、ハワイとやらの風物にある程度精通する必要もあるぢゃろ。如何せんわしも歳ぢゃし、今さら長旅もままならん身体じゃ。そこで…」大抜擢をうけたのが細見氏。細見氏は美術教師時代に病魔に苛まれ、6年の闘病の後に友禅絵師を目指して上洛した、当時32歳の働き盛りでした。さっそくプロペラ旅客機に搭乗し単身ハワイに降り立ったのは、絵師修業をはじめてわずか一年後のこと。
左が細見氏によるハワイの風景スケッチです。 市場調査をかねて、現地のテーラーや生地屋などの顧客をまわり、同時にハワイの風物を熱心に描きためたそうです。
顧客まわりによる直接リサーチは、帰国後の創作活動に直接反映されました。たとえばトロピカルな光景を描き出していながら、繊細なタッチで意匠化されたモチーフや独自の展開、何げない色遣いの中に、和の香りが漂う作品群が出来上がりました。(当時のプリント生地をベースに、ビンテージレプリカアロハを商品化している企業がありますので、当時の図案やプリント生地を掲載できません。ごめんなさいね)
以降細見氏は精力的に図案を制作し、せっせとハワイに送り続けてきたのです。

右の画像、持ってる人も多いかな? マニアなら知っている某ブランドの冊子です。京都の染色業界、なかでも和装関連では細見氏の存在を無視し続けてきましたが、氏こそ新たな分野に挑戦し、成功を収めたパイオニア。今風に言えば『ベンチャー』ですよね。当時の太平洋航空路は、先ほども書きましたようにプロペラ旅客機。不時着・遭難の危機を乗り越えて、おのが独自境地を切り開いたわけですから、まさにフロンティア。(実際エンジン故障で遭難しかけたとか)

細見氏が得意としたのは、やはり和柄でした。
でも狩野派にも文人画にも属さない、独自の境地を切り開く事に成功したと言えるでしょう。もともと日本画だって、ルーツをたどれば大陸出身。半島経由で日本列島に伝わり、どん詰まりのなかで独自に発展した歴史があります。その枷がようやく取れて、海の向こうの常夏の島に渡ったわけだから、色彩・構図にも変化があって当然ですよね。日本でも東北・北海道と沖縄じゃ、映える色彩も違いますからね。

細見氏はまだまだ現役で絵筆を握っておられますが、ビジネス第一線は息子さんに代替わり。自ら絵筆を握るかたわらで、10名のお弟子さんを抱え、熱心に指導されています。 ハワイや米国本土の企業に依頼されて手描きの元絵をおこし、Macに取り込んでネットでデータをやりとり。売れ筋情報も瞬時に把握できるそうですから、インターネット様々だとか。日本で描かれた図案がインドネシアで染色され、欧米各国の市場へ出荷されて、中国やベトナムで縫製されてハワイの店頭に並び、日本人が買いあさって行く。う~ん、すごいグローバルなビジネスですね。 このほかにも先生のアトリエにおじゃまして、いろいろお話を伺ってきましたが、本当に興味深い話題の連続で、あっという間に予定時間を超過してしまいました。私も好きでこの商売をはじめた口ですから、自分でも業界通だと思っていましたが、さすが現地・現役・第一線の猛者は情報量が違いますね。
「あぁ、○○の生地は、××の依頼でうちが描いたんですよ」「××って、東寺の露店まで来て、うちの反物が欲しいって言ってましたよ」「もともと彼の兄貴がファブリック扱っていて、和調の物に絞って商売をはじめたんですよ。アメリカンキルト用に柄をおこした和柄のオープン生地が、ずいぶんアロハに使われてるようですね。△△の柄は、ほとんどうちで描いたものですよ」「え~△△って、日本人の□□さんが作ってるアロハでしょ?」って感じのコアなお話しが延々。さすが社名・ブランド名・個人名をオープンにすると拙いと判断して、今回は伏せ字にさせて頂きましたけど、先生の図案さえ有れば有名ブランドとまったく同じものを私が制作する事も可能なわけ。だんだん心のなかの虫が「いったれ、いったれ」と騒ぎはじめましたが、よそと同じアロハ作っても意味がないと考え直し、「アロハ以外の製品に使いたいですね」とお願いしてみる。「協力しますよ」と快諾して下さった、細見先生に感謝。。。
さぁ、何作ろうかな?